仕事が忙しくなり、平日に疲れきることが多かったので、お休み
の土日にもエネルギーが枯渇しておりました。
止めたわけではありませんので、皆さんどうか引き続きご愛読の
ほどよろしくお願いします。って更新してなきゃアクセスも
遠のくってもんですね(^^;
マサやんの生涯シリーズは、意外と!?興味を持たれているよう
なので、まだもう少し引っ張りたいと思います。
大してドラマチックな人生でもなかったですが、今までの人生が
間違いなく今の僕を形成しているので、十二分に意味のある人生
だったとは思っております。
中学時代は、好きな子に取り入る目的で聞いたビリージョエルの
おかげで、グングン英語の実力が上がり、卒業時には英語は最も
得意な科目になっていたから不思議なものです。
ただ、当時はあまり試験前以外は勉強せず、内申書も良かった
わけでもないので、当初希望していたI田高校に行くにはちょっと
足りないかも、と担任の先生に三者面談で言われた僕ですが
元来深刻さに欠ける僕は
「あっそうですか。なら、その次のランクのY合丘高校でいい
ですよ」
とあまりにあっさり方針を変更したので、担任の先生も僕の母親
も、ポカンと拍子抜けしていたのをよく覚えています。
担任の先生によると、I田高校は絶対に行けない訳でもなかった
ようなのですが、万一、ということがあるといけないので
安全を見た、担任としての親心だったみたいです。
ちなみにこの担任の先生の名は、T山徹先生といい、当時26歳の
若い熱血漢で、この先生のおかげで中学3年生のクラスは
今振り返っても、人生最高だったと確信できるほど、素晴らしい
指導とリーダーシップだったと思います。本当の本当に良い
クラスでした!できれば、クラス会したいなあ・・・
話はあちこちに飛びますが、中学3年生の時の強烈な思い出と
しては、秋の運動会のクラス対抗種目で、土台となる人が5〜6
人で竹を垂直に立て、10名の走者がバトン代わりにリュック
サックを背負い、竹をよじ登って先端に旗を立て、次の走者に
リュックを渡し、10名の走者がより早く全ての旗を立てて
ゴールしたら勝利!というリレーがあったのですが、この種目に
わがクラスは、感動の優勝を果たしたのです。
この種目のポイントは、竹をよじ登る速さもさる事ながら、一番
大事なことは、バトン代わりであるリュックの受け渡しをいかに
スムーズに行うか、ということにありました。
やってみたら分かりますが、リュック(今で言うデイパック)を
背中から外して、次の人に渡すことはそんなに簡単にできるもの
ではありません。
ルールとして、リュックはきちんと両腕を通して背負うことに
なっていたので、受け渡しの困難さはなおさらです。
この非常に難しいリュックパスを、うちのクラスは研究に研究を
重ねて、あるベストな方法を編み出したのです!
それは、リュックを背負っているものが、右腕のベルトを外し
ながら、正対する次の走者の左側(相手の右手側)に近づき
外した右腕のベルトを、差し出した相手の右手にささるように
して、ささったのを確認したら、走者は反時計方向に回転をして
背中のリュックが外れるように回り、次走者も外れつつある
リュックを身に巻きつけるようにやはり反時計方向に回転して
縮めていた左手を、外れかかっているリュックの左腕ベルトの
隙間に差し込んで、前の走者からリュックを剥ぎ取る形で
二人が芸術的に回転しながら、瞬く間にリュックの受け渡しを
終えている、という技を編み出し、竹をよじ登る速度は他の
クラスと大差なかったのですが、リュックの受け渡し速度で
尋常じゃないリードを生み出し、結果、感動の優勝を勝ち取る
事ができたのです!!!
今思えば、たかが運動会での一種目に過ぎないのですが、クラス
全体が、勝利という目標に向かって、一致団結して素晴らしい
方法を編み出し、練習を重ね、実戦で成功して、目標の優勝を
勝ち取ったことは、これまた一生忘れることのできない最高の
思い出です。
ちなみに、そのリレーでは僕は名誉ある第一走者でした(^^)
竹をよじ登るのに多少手間取ったのですが、リュックパスは
完璧だったことを覚えています。
目の前のことに一生懸命になるって、素晴らしいことですね。
って、またまた脱線でした。なかなか高校に入学しませんね。
そんなわけで、ごく普通レベルの県立高校を選択した僕は、一応
緊張しながらも入試を受けました。
ちなみに僕の実兄も同じ高校でした。
入試の問題は、僕の印象では非常に易しく、これはまず間違い
なく合格だなと、試験後には確信しておりました。
どちらかというと、僕は楽観的かつ自信過剰なほうです。
確信は正しかったようで、問題なく合格しただけでなく、英語の
テストは、何と僕は見事満点をマークしたのです!
このことは、ちょっと職員室で話題になったらしいです。
M岡の弟が、入試の英語で満点を取ったらしいぞ・・・と。
僕の兄は、生徒会活動で先生にも生徒にも有名だったので、その
弟がなかなかやりおるのう、ってなところだったのではないで
しょうか。
こうして晴れて高校に入学した僕の次の課題は、部活動を何に
するか、ということでした。
もともと運動は大好きなので、文化部や帰宅部、またバイトに
燃えるという選択肢は、これっぽっちも考えませんでした。
ただ、中学の時本当にキツかった陸上部と、兄がやっていた
サッカー部(兄は途中で止めた)だけは、止めようと思いました。
となると、残る運動部は、野球、バスケ、バレーボール、卓球
テニス、ハンドボール、そしてバドミントンとなるのですが
野球は坊主がイヤだったし、バスケは何となく面白みを感じない
(全力で上から叩きつけるようなショットがない)し、卓球は
暗いイメージがあったし、バレー、テニス、ハンドも何となく
これといった興味が湧かなかったのです。
そんな中、バドミントンは、何となく楽しそうだったし、陸上部
よりは楽そうだったので、当時の正直な考えとしては
「楽で、楽しそうだったから」
という安易極まりない理由でバドミントンを選択したことを白状
します(^^;
そんな軽い気持ちで選んだスポーツを、その後現在に到るまで
熱心に継続するとは、当時は全く考えていなかったなあ。
そうして入ったバドミントン部ですが、女子の人数が多い割り
には男子が非常に少なく、3年生が2人、2年生が4人という
非常にこぢんまりした部活だな、という印象でした。
その前段階として、ラケットを買わなければならない、という
ことで、町田市にあるラケットショップM町に先輩にお付き合い
頂いて、僕が生まれて始めて選択したラケットは、カワサキの
78というスチールの重たいラケットでした。
初心者であり、バドミントンに関して一切の知識がなかった僕は
最初のグッズは、ネタ作りで青一色に統一しよう、とクダらない
作戦に出たのでした。
つまり、ラケットも青、ガットも青色を選択し、とどめのタオル
グリップもブルー。真面目さのかけらもない状態から僕のバドは
スタートしたのです。
バド部に入って最初に教わったのは、素振りでした。
当時の顧問の先生は、S井さんといい、真面目で誠実で少しお茶目
なところがある人間的には好きな先生でしたが、いかんせんバド
に関しては、今思えばパーフェクトにずぶの素人でした。
その先生に教わった素振りは、前にも書きましたが、完全に腕の
運動効率を無視した、理論にかなっていない振り方なのでした。
それは
「腕で右耳を擦るような感じで、腕を垂直に伸ばして打て」
この打ち方は、バドの合言葉である「より高く」を忠実に遵守
せんがための方法なのは理解できますが、やってみると分かる
ように、全然力が入らない打ち方なのです。
しかし完全な初心者であった僕は、ひなが最初に見たものを親と
認識する原理と同じで、その振り方が正しいスイングなんだ、と
一心不乱に壁ぎわで、耳を擦るんだ、腕を伸ばすんだ、と集中
しながら、間違った運動を叩き込まれていってしまったのです。
そのスイングに加えて
「シャトルは手首のスナップで打て」
と手首をくの字に折って打つように指導され、スタートの段階で
僕のフォームは、どんどんいけない方向に強化されていったの
でした。
そのフォームを教わって、そのフォームでノックを受けて、僕は
他のみんながぎこちないフォームながらも、何とかラケットに
当ててるのをよそに、一人でみじめな空振りばかりを繰り返して
いたのです。
「みんなは打てるのに、僕は空振りばっかり・・・」
ノックの時、あまりにシャトルに当たらない僕は、途中で先生に
止められてしまい「ちょっと横で素振りしていなさい」と
同じメニューをさせてもらえなかった悔しさと恥ずかしさは
当時は屈辱以外の何ものでもありませんでした。
しかし、その悔しさがあるからこそ、現在、うまくプレーできな
くて悩んでいる方に、優しく教えてあげたい!って気持ちに
なれると思うので、今思えばそれも良かったんだなと、あの
悔しさ、恥ずかしさも、ちゃんと役に立っていることに不思議な
思いがしています。
そして一生懸命に素振りする振り方は「耳擦りスイング」・・・
僕のバド人生は大変なハンディを背負ってのスタートでした。
そしてその後教わった技術は「足替え」です。
ラウンド奥のシャトルを打った直後に一歩前に足を出すあれです。
この足替えを、清水先輩という3年生の部長から教わったのですが
僕は最初、全然先輩と同じようにできず、清水先輩も僕のあまりの
覚えの悪さに苦笑いしていました。
このように技術的には最低レベルの僕でしたが、イヤイヤながら
でも何とか続けた陸上部のおかげで、体力的にはバドの練習や
ランニングは、僕のとっては平気の平左。体力面では確実に
同級生でトップでした。
そして、当時はまだ真面目!?だったので、先輩からも可愛がら
れていたと思います。
しかし3年生が卒業し、2年生がメインになると、新しく部長に
なった鈴木先輩が、後輩への指導を厳格化していったのです。
というと大げさですが、礼儀に厳しい鈴木先輩は、先輩後輩の
けじめに敏感で、いくら上手くても練習に来ないとか、態度や
口の利き方が生意気な後輩には、容赦ない攻撃が浴びせられるの
です。
鈴木先輩の基本的な考え方には同意するものの、当時の先輩の
やり方は少し行き過ぎだったので、僕の同期はそれを嫌って
一人、また一人と辞めていき、最終的には僕を含めて4人にまで
減ってしまったのでした・・・
一人は青木。彼は中学時代、団体で県を制した学校の第一ダブルス
という実力者だったので、鈴木先輩の毒牙も彼には及ばなかった
のだと思われます。
星という男は、多分要領が良かったのでしょう。あまり鈴木先輩に
イジめられるシーンは目立ちませんでした。
残るは初心者の萩原と僕だったのですが、この初心者の二人は
いずれも真面目で、鈴木先輩の気持ちを損なわなかったようで
特に実害を受ける事がなかったので、ちゃんと部活動を継続して
いけました。
僕は高校始めの初心者だったので、中学からバドをやっていた
青木や星は、はなからライバルにはなり得ず、僕の当面の
ライバルは、同じ初心者で、そして運動神経抜群な萩原という
ことになったのです。
萩原は、柔道ではちょっとならした有名選手で、川崎市では
常に上位に入っていたみたいです。
前にも書きましたが、彼の実家の彼の部屋は、二階にありながら
二階から入る所がなく、床の間の床がふたのように開いて
そこに下に降りるはしごがあり、彼の部屋に出入りする唯一の
手段がそのはしごという、忍者屋敷のような部屋に住んでいま
した。
僕らがお邪魔した時、彼がお茶菓子を持ってそのはしごを
昇ってくるのですが、お盆や急須やお茶碗やお菓子を、一体
どうやって持ちながらそのはしごを昇ってこれたのか、当時の
謎の一つでした!?
彼はこんな日常生活でも、運動神経を鍛えていたのでした。
さすが忍者萩さん。
萩原は、プレーがしなやかで、また割りできるほど体も柔かく
足腰も強くてパワーもあり、特筆すべきはその跳躍力で、ネット
前でジャンプしたら、ネットを飛び越えるんじゃないか!という
くらい、それはそれは長い滞空時間を誇るほどの瞬発力も備えて
おりました。
技術的にも、彼は常に一歩僕の先を行っており、レシーブでも
ドライブでも、僕よりちょっと上手くなるのが早かったような
記憶があります。
それだけに、僕も負けていられない!ということで、得意の
ランニングだけは、意地を見せて負けないようにと頑張って
おりました!?事実、ランニングだけは、なんちゃって陸上部
ではありましたが、こなした練習は嘘をつかない、ということで
僕の方が速かったと思われます。
ただ、そのランニングも萩原はなかなか速く、僕とそれほど
大差なくて、その危機感からも練習を一生懸命に頑張っていた
ことを覚えています。
僕は自己診断で、どちらかというと器用な方だと思うのですが
当時は真面目一本やりで、今のように頭を使って考えてプレー
することが皆無だったので、なかなか技術の習得は進まず、端的
に言えば「へたくそ」でした。
シングルスは、基本的に前が取れない人でした・・・
二対一のオールロングをやったりすると、二の方の先輩が前に
ドロップを落とした時点で、常にラリーは中断されました。
全然取れないのです。
前が取れない僕をあざ笑うかのように、先輩方は次から次へと
ドロップ攻撃を繰り返しました。
その全てが取れませんでした。
先輩は、僕のその弱点を克服させんがために、執拗なドロップ
攻撃の手を緩めなかったのだと思いますが、あまりに全然
取れなかったので、ただ単に自信を無くして、そして自分に腹が
立っていたような気がします。
どうやったら前に足が出るのか、は言葉では教えてもらえず
また気の小さかった僕(今では考えられないですが)は質問する
ことすらできなかったので、他の人のプレーを見たり、他の人が
前のレシーブについて話しているのを、横で耳をそばだてて聞く
くらいしかなかったのでした。
そんな状況で、ある上手い人が話していたことが大いにプレー
改善のきっかけになりました。
その人いわく
「後ろの球は、着地するまで時間があるから取れるんだ。しかし
前は着地する時間が短いから、前に意識を集中させろ」
だったかな? ニュアンスは合ってると思います。
なるほど!と、それからの僕は、それまでの僕より大幅に意識を
変えて、前の球を集中して待つようになって、少し前の球に
対応できるようになったと思います。
それに加えて、上級者のホームポジションへの戻り方(相手の
ラケットにシャトルが当たる瞬間に、リアクションステップを
とる形)を理解してからは、かなり前後左右に動けるように
なりました。
しかし、自分自身の探究心が足りないせいか、僕の上達度は
悲しいかな高校時代では非常に少なく、同期の3人には最後まで
敵わなかったのでありました・・・
個人戦には、一校からダブルス2つとシングルス2つで
ダブルスは、同期4人だったので必然的に出場できましたが
シングルスは、総当りをして上位の2名が出場しよう、という
非常に公平かつ、実力の無いものには厳しい方法が採用され
僕は他の3人にどうしても勝つことができず(つまり全敗)
遂には高校時代はシングルスの個人戦に出場できなかったので
ありました・・・昔はホント弱かったなあ(_ _;
僕らの当時の大きな目標、いや悲願は
「県大会団体出場」
でした。
強豪高の方や、全国大会出場常連の方から見れば、何と志の低い
クラブなんだと思われるかもしれませんが、当時の状況から
すると、届きそうで届かない、一回は勝つけど二回目は苦しい
という、県大会出場というのが、同期の共通の強い思いでした。
そしてそのチャンスは3年生の最後の市大会で訪れたのです!
僕らは団体の一回戦を勝ち上がり、次に勝てば県大会に出場
という状況になりました。
当時は、僕らの所属していた地区が県で上位に進出していた為
県大会出場枠が多めに確保されていたのです。
確か、市で5位か6位でも行けたと記憶しています。
その悲願の初出場を賭けて戦ったのはT摩高。ここは学区内では
一番偏差値の高い高校で、ここに負けたら「文武両道」を達成
されてしまう!?ということで、偏差値で劣る僕らとしては
運動では負けられない思いでした。
しかしその高校には、シングルスで絶対に勝てないY形という
選手がいたので、僕らの作戦はシングルスは諦めて、ダブルス
2つを取りに行こう、と言いながら、いつもその作戦しか物理的
に取る事ができないのでした・・・
ちなみに当時の団体戦は、二複一単でした。
向こうのシングルスは予想通りの山形。僕らの思惑通りです。
第一ダブルス(僕と星)は、星のゲームメークに乗って
技術はないけどパワーと体力はあった僕が遮二無二打ちまくる
という戦法?で、幸先良く先勝しました。
シングルスは、こちらとしては誰が行っても勝てないので、後輩
に撃沈してもらって、勝負は第二ダブルスに委ねられました。
第二ダブルスは、青木と前出の萩原。青木は実力者で萩原は
抜群の運動神経の忍者!?でしたので、僕と星は
「頼む!何とか勝って悲願を達成させてくれ!」と祈るような
拝むような思いで、その試合を見つめていました。
するとその願いが届いたのか、こちらも何と1ゲーム目を先取
したのです!俄然僕らは色めきたちました。
そしてその勢いに乗って、2ゲーム目も終始リードを保ち、常に
押し気味にゲームを進めて、悲願まであと数点となり、ベンチの
僕と星は勝利を確信し、決定の瞬間はできもしないバクテンでも
やろうかと思いました。
試合が終わっていた女子も、その時コートサイドで応援をして
くれて、体育館のその一角だけ妙に盛り上がっておりました。
たかが県大会出場、されど僕らには悲願だったのです!
順調に加点していた青木と萩原くんでしたが、ここで突如異変
が起きたのです!!!
女子軍団が応援に駆けつけた時を境に、萩原のプレーが
はたからみても分かるくらい明らかに乱れ始め、安定性を失い
ミスを連発し始めたのです。
保っていたリードは徐々に縮められ、それに焦って動揺する萩原
の目はいよいようつろとなり、あろうことかそのゲームを逆転で
落としてしまったのです!!!
悲願達成は運命のファイナルにもつれ込みました。
しかし、一度向こうに移った流れと、萩原の動揺は止められず
ファイナルは逆に終始リードを保たれたまま、信じたくない
いや、受け入れたくない大逆転負けをくらって、僕らの悲願は
すぐそこの数点先にあって指先が掛かっていながら、無残にも
するりと彼方へ永久に去ってしまったのでした・・・
運動神経抜群の忍者萩さんでしたが、女子の応援には免疫が
無かったみたいです。
忍びの者には、異性との交わりはご法度だったのでしょう(^^;
願わくは、どこかのくの一と「お忍びデート」でも経験していた
ならば、あの極度の急変には結びつかなかったのではと、悲願に
届かなかった僕らは少し思いましたが、それも仕方のない事です。
こうして、最大の目標を達成できなかった僕らは、試合後円陣に
なり、顧問の先生の言葉を聞いていました。その内容は
「負けたけど、良く頑張った」的な内容だったと思うのですが
あまりのショックに完全に上の空、右から左でした。
ふと横に目をやると、部長だった青木が隠そうともせず
目を真っ赤にして泣いていました。
彼は、著しい戦力不足であるクラブの部長として、実力差のある
僕らにイヤな顔一つすることなく、最後の方は顧問も放任状態
だった部活の練習メニューも考えて、一生懸命チームを引張って
きてくれました。
そんな彼が人目もはばからず涙を流す姿を見て、僕も非常に
悔しくはあったのですが、何か救われたような、皆同じ思いで
戦っていたんだ!と感じて、彼や他のメンバーと一生懸命に
真面目に練習に取り組んできて、この部活に入って本当に良かった
なあと心から実感できたのです。
青木が、部活引退後に書いた部活の日誌か何か失念しましたが
その文章の中で、僕と萩原の事を「高校始めの初心者だった
けど、本当に一生懸命頑張ってくれた」と書いたくだりを見て
今思い出しても目頭が熱くなるような言葉に、非常に感動した
ことを忘れることができません。
陸上部がキツくて、楽をしたくて始めたバドミントンで、しかも
高校時代は大して上達もできませんでしたが、目標に向かって
一生懸命頑張って、到達はならなかったけど、先輩や仲間や後輩
と一緒に汗を流した素晴らしい思い出があればこそ、44歳の
現在に至ってもバドを続けているのではないかと思っているの
です。
と言いながら続けているのは、同期で僕だけですが・・・
来る8月8日には、山梨は道志村にて3回目のバド部OB合宿を
実施します。
メンバーはほぼ関東在住ですが、何故か大阪に居る僕が名誉幹事
で、取りまとめを行っているのです!?
単に僕が燃えているからですが。
でもこうして何年経っても、社会のしがらみを完全に忘れて
昔の先輩後輩のままで集まれるというのは、部活なればこそだと
思います。
僕の一つ下に小川という後輩が居ますが、この歳になっても昔の
上下関係はしっかり保たれ、僕は彼を「一生後輩」(当たり前)
と呼んで、彼もそれを諦めて!?受け入れているというのが
何とも痛快です。
もう彼もいい中堅の社会人で、43歳で1年しか違わないけど
部活の集まりとなれば、死ぬまで僕を抜くことはできないのです!
彼は上記の合宿に参加しますが、一回はパシリさせようと思い
ます(^^)
それと、前出の部長青木、忍者萩さんも参加しますが、同期
が揃って飲み会になると、必ず上記の「萩さん、女子応援から崩れる
ネタ」に一回は突入して、あの時女子さえ来なかったらなあ!
とか、あともうちょっとだったのに〜!と鉄板ネタで盛り上がる
のでした。その度に萩さんは、苦笑いするしかないのでした。
と、得意の長文になってしまいましたが、思い出して書きながら
不覚にも昔の感動が蘇って、少し涙がこぼれてしまいました。
僕は非常に涙もろいのでした・・・
ではそろそろ(やっとか)バドの話。
<成長するのはみじめな敗戦から>
バドは競技ですので、勝者と敗者が必ず存在します。
他の競技では引き分けという場合もありますが、僕としては
勝ち負けがはっきりした方がすっきりするので、きっちり決着が
つくバドミントンは、とても僕の性に合っています。
皆、勝つことを目標にしているのであって、負けたいと思って
練習・試合している人はいません。
それは負けることは、非常に悔しいことだからです。
残酷な言い方をすれば、負けるということは「バドミントンに
おいて、相手より劣っている」ということだからです。
逆に、だからこそ勝ちたいし、勝てば優越感に少し浸れますし
何はさておき単純に嬉しいので、みな一生懸命に頑張って、日々
成長しようと努力しているのです。
大体、競技としてスポーツに取り組んでいる人は、大概負けず
嫌いではないでしょうか?
僕もそうですが、試合に負けることはもとより、普段の練習試合
においてすら、負けると非常にストレスが溜まります。
それが、情けない負け方だったりすると、自分が非常に無力に
思えて、ああ何てオレはだめなんだろう、と自分を責めてしまう
方もいるのではと思います。
しかし、成長の鍵は、その情けないみじめな敗戦に潜んでいるの
です!
勝つことは気分が良いですが、気分が良いだけに、勝った後には
なかなか反省点は強くは出にくいものです。だってとにかく
勝っているんだから。
一方負けた時、しかも実力が出し切れないとか、精神的に崩れて
自滅して、負ける筈のない相手に負けてしまったような状況は
実は、物凄く成長にはもってこいのシチュエーションなのです。
それは「すっごく悔しいから」「こんな悔しい思いは二度と
繰り返したくないから」です。
人間は反省のできる動物です。失敗を繰り返していくうちに
次回は改善しようという意識が発生し、すぐには対応できなく
とも、ああ前回もこうして崩れていったなとか、前回の反省点を
活かして、改善のできるのが思考能力のある人類の特質だと
思います。
脳科学の本で読んだのですが、人間は失敗を重ねて学んでいく
ものなのだそうです。
勉強をしていて、教科書を覚えようとして、一回で完璧に覚え
られる人は居ません。
何度も何度も復習をして、脳に記憶を定着させて、より記憶を
強固にしていくのです。
記憶のコツというのは、関連付けるとか、感情とともに記憶する
とかいくつか方法はありますが、原則としては、繰り返し反復
して刻み込む、しかないそうなのです。
人間の脳には、海馬という記憶に重要な器官があります。
目や耳から入った情報は、必ずこの海馬を通して脳の各所に
分配されるのですが、脳は基本的に重要な情報しか残そうとは
しないのです。
本当に重要な情報は、自ずと脳が判断するのでしょうが、記憶や
バドの動き(運動もれっきとした記憶です)など、本質的には
重要と思えない情報を、脳に刻みこむ為には、この海馬を騙す
ことが必要なのだそうです。
具体的にはどうするのか?それが「復習」なのです。
海馬の立場としては、一度ならずも何度も何度もやってくる情報
は「これは重要な情報なのではないか」と勘違いして、記憶に
刻みこんでくれるものなのだそうです。
ちょっと話がずれましたでしょうか。
バドにおいて、敗戦というのは、つまり勝つ為の方法が間違って
いた、とも言えます。
自信のないプレーというのは、あいまいな記憶のようなものです。
あの問題をいつも間違える、と同じ感覚で、あのプレーをいつも
ミスってしまう、のだと思います。
つまりはそのプレー・動きについての記憶が強固ではないのです。
その悔しさを味わわない為にどうすれば良いかを反省し、その
方法を考えて、改善する為に練習したり、次回の試合で改善策を
試してみる。
成功の方法に関する記憶を、反復練習によって強固に刻みこむ。
これが、大きく成長できる鍵なのだと思います。
たった一つのポイントが改善されるだけで、常にネックとなって
いたそのプレーでミスが減るということは、既に大幅な成長と
呼んでも差し支えないと思います。
なので、悔しい思いをすることは、非常に重要だと思います。
負けたくないでしょうが、成長の為には負けることは必要では
ないか、とさえ思うのです。
いけないのは「どうせ勝てない」「負けて当然」と、悔しさを
感じないで、自分を欺くことです。
負けたことを、バネ、モチベーションにしてこそ、明日の勝利が
あるのです。
先日、女子トップアスリートのインタビュー番組がやっていて
その際「自分が成長したと思う時は?」という質問で、出演して
いた4人が口を揃えたように、自分のみじめな敗戦が成長の鍵
だったと述懐していたのが、非常に印象的でした。
誰でも失敗・敗戦はします。大事なことは、その失敗・敗戦を
次回に活かせるかどうかです。
改革なくして成長なしとは誰かの言葉ですが、マサやんとしては
「敗戦なくして成長なし」
と軽くパクッて、久々の投稿に変えさせて頂きます!?
皆さん、今回負けても、次回は、いやいつかは勝ちましょう!
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しばらく更新せずに失礼しました。
そんな状況でも、ちょくちょくアクセスしてくれていた皆さんに
感謝します。
気が付くと、このブログの訪問者が3万人を超えていました。
開設当初からすると、本当に信じられないことです。
僕も、このブログを書くようになってから、口だけの人間に
なってはいけない!と強く意識するようになり、バドへの取り組み
方が、より真剣になりましたので、その点からも始めて良かった
なあと思います。
あとはもう少し更新頻度を上げないとなあ・・・
一回の文章が長すぎるんだよなあ・・・(自覚済み)
まあ、おいおい改善していきますので、期待せずにお待ち下さい。
報告すべきウミンチュ活動ですが、既に2回(うち一回は一泊)
日本海に繰り出しました。
一回目は、7月5日。二回目は7月17〜18日。一回目は
まだ少し水温が低く、30分も海に浸かっていると震えが止まら
なくなるくらいでしたが、いずれも美しい日本海の最高の水質を
満喫し、身体もそれなりに日焼けできて、満足度の高いイベント
となりました。
新調したダイビングマスクに改善した視力で、透明度高く澄み
切った日本海は、潜っても視界が遠くまで利いて、小魚の群れや
時折大きな魚(見市は真鯛を見たとのこと!)にも遭遇して
湘南では決して味わえない、素敵なシュノーケリングを心から
楽しんできました。
美しい日本海の様子が伝わるでしょうか。天気の良い時の日本海
は、本当にエメラルドグリーンそのものなのです。
またすぐに更新しま〜っす!
では。